高校生のころ、仲の良かった友達に言われたことを今も覚えている。
私の通っていた高校は制服がなく私服だったので、
年頃ど真ん中で常に好きな人がいたあの頃は、毎日何を着るかは一大事だった。
その時の私が持ち合わせていたセンスと、バイト代で買える範囲の服で精一杯のお洒落をしていた日々。
あるとき友達数人とファッションの話をしていて、
「ハナコって、何風とかじゃなくてハナコ風だよね」と言われたことがあった。
その子は真っ直ぐさが魅力の子だったから純粋に思ったことを言ったのだと思うけど、当時の私はどう受け取ったのだろう。ハナコっておしゃれだよねと褒められたわけではなかったし、自分の服装をたびたび母や姉から「変なかっこう」と笑われることもあった私はちょっと複雑な気持ちとともにその言葉を受け取ったような気もする。
けれど、年月を経て大人になりこの言葉を思い出すようになると、それは紛れもなく褒め言葉なのだった。
笑いながら話していた友達の口ぶりもありありと楽しい空気感でよみがえってくる。
高校生の私はべつにおしゃれではなかったと思う。
(おしゃれな子や洗練された子は他にいた)
むしろ時には妙な格好に見えたこともあったかもしれない。
だけどそこには私が表れていたのだろう。
おしゃれとかおしゃれじゃないとかの物差しとは関係なく存在しているもの。
そういうこととはぜんぜん別の地平で存在するものがこの世にはあるのだ。
ただ在るとしか言いようのないもの。
そこにフォーカスを合わせて透明な目で見つめてみると、おしゃれとかおしゃれじゃないとか、いいとかダメだとか、そういった意見は鬱陶しく余計なものでしかないことがわかる。ナンセンス。
だから年々ますます思う。
私は私でありたい。
服装とか見てくれのことだけじゃなくもっと全体の話として。
自慢の娘でもなく、
かわいい恋人でもなく、
優しい母でも、
いい友ですらなく。
私はどうしようもなく私でありたい。
どこまでも果てしなく私でありたい。
この世で成し得る最も偉大な仕事はどれだけ自分であるかじゃないだろうか。
それをとことん追求した道の上に偉大な仕事は現れている気がする。
だけどそれは個性を追求するというニュアンスとも違う。
いかに個性的か、いかに人と違うかに重きを置いて追い求めていく道じゃなくてむしろその逆を行く道。
自分由来ではないものをどんどん脱ぎ捨てていく。
力みはぬいていくぬいていく。
洗って洗って現れる。
そこにはある種のあきらめの感覚がある。
清々しさがある。
せいせいと私でありたい。
私でありたい

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