熱を見せて

writing

われながら自分って熱いなあとしばしば思う。


何事にも惜しむということがない。

出し惜しみをすることなく、
いつでも持ってるものをめいっぱいに注ぎ込む。
損得勘定というものがないし、
これくらいの対価にはこれくらいという感覚もあまりない。

そのあたりの基準はぶっ壊れていて、
(というより初めからその基準を採用していない)
自分がこうしたいとその時思うことを思うだけやる。
基準はつねに自分の中にあって、
いつも自分の中から出てくる熱に動かされて行動している。


熱がすごいのだ。


人に対してわたす言葉も、
気遣いやかける心のエネルギーも、
自分の中から出てくるものを出てくるだけ差し出す。

なにかを探究することだったり、
ものを作っていくときもおんなじ。

私の熱はいつでもふつふつあかあかと燃えていて、
いくらでも無限にわいてくるようだ。

なんで私ってこうなんだろうと思ったとき、
これはある種のトレーニングの賜物だろうと思った。

ずっとそうやって生きてきたから。

いつでも全力で惜しむことなく、
全身全霊でどんなことにも熱く生きてきたと思う。

それは明るいことだけじゃなくて、
暗いことに対してもそうだった。

人生に絶望したり、悶え苦しんだり、
悲しみに呑み込まれていた時も、
その自分を熱く生きていた。
どんな時も熱く生きてきた。

熱は、生きているということだと思う。
熱は生きているあかし。


だから熱を見せて。


べつに、松岡修造みたいになれってことじゃない。
熱は人からは見えにくいこともある。
静かに燃える炎もある。
じんわりした熱もあるし、
冷たくみえる熱さえあるかもしれない。

だけど、だれの中にも絶対に熱がある。

その人だけの、
その人にしかわからない種類と方向性の、
その人にしかわからない熱量のMAXがある。

だから熱を出し惜しまないでほしい。
あなたは生きているから。


その熱を燃え上がらせて。

あなたの熱を見せて。


私はいつでもそれが見たい。

あなたの熱が見てみたい。

そう思っています。

コメント

タイトルとURLをコピーしました