ひとり暮らしをしてみたいと思うようになったのは何年前からだろうか。
私はひとり暮らしをしたことがない。
それって幸せなことだよと言う人もいるだろう。
お気の毒にと思う人もいるだろう。
世の中にはいろんな人がいて、
いろんな事情があり、
しかもいろんな体験の仕方があるので、
何が幸せで何が不幸かも何ひとつ決まってはいない。
だけど、私がひとり暮らしをしたことがないというのはちょっと奇妙なことのように思える。
なぜかというとひとりでいられるタイプだから。
昔からずっとひとりでいることが好きだし、
いくらでもひとりでいられて、ひとりの時間がまったく苦にならない。
むしろひとりになると生き生きウキウキのびのびしてくるタイプ。
ひとり遊びが至極上手なのだ。
といって孤立していたわけではなく、
子供の頃は毎日のように近所の子らと遊んでいたし、小学生くらいからは親友のような友だちができて親しく密なつき合いも覚えた。中学、高校、大学、社会人と進む中でも、必ず気の合う子がいてその関係性を楽しんできたし、部活やサークルや職場という複数人のコミュニティーもその都度楽しんできた。
自分のことを“社交的な人間”とは思っていないけれど、誰とでも広くつき合うことのできる人間だとも思う。老若男女、属性や特性を問わずたいてい誰でも大丈夫というか愛せるというか。
いちばん近い言葉だと博愛?
これだとちょっと意味が違っちゃう気もするが。
懐がわりと広め深めで、来た者や居る者はたいてい受け入れられる。が、基本的にこちらからは求めていなくて自己完結しているタイプ、とでも言うのかな。
(字面だけだと誤解を生みそうな気もする)
でも、人づき合いができることとひとりが好きということはまったく別の話なので全然ありうるし、現に私はそうだ。
前置きが長くなったけれど話を本題に戻すと、
ひとりの時間をこよなく愛している自分がこれまでひとり暮らしをしたことがないのは変だよな、という話。
大学卒業後に働いた職場へは実家から通っていて、しばらくして夫と出会い、猫を拾ったのをきっかけに一緒に住むようになり、結婚し、息吹が生まれ、今に至る。
こういう流れになったのはたまたまのようにも思えるけれど、人生に偶然はない。
出来事(あらわれ)のその奥にあったものとは?
いくつかポイントはあるものの、
いちばんはこれだと思う。
「わたしには生きる価値がない」
もう少し言うと、
私はだれかを助けないと生きる意味がない。
私はだれかのために生きなければいけない。
私は自分のために生きてはいけない。
こんな感じ。
それと、「わたしには生きる力がない」というものもあった。
でも、さいわいなことに
この数年でそれがごそっと外れてしまった。
これらぜんぶ、無意識の中に埋もれていたもの。
本人(自分)さえそのベースにのっとって生きていると気づかなかったような深く隠された設定。
それがすごい勢いでドサっと落ちてしまい、
目が覚め、
自由になってきてしまったら、
自然の成り行きとして元々の自分を思い出してきたというわけ。
そしてこれもまた当然の成り行きなのだろうが、
願えばちゃんと叶うもので、
ここ半年くらい、週に一回、ひとり暮らしができるようになった。
厳密にはひとり暮らしの夜だが。
でもすごい!
ひとりになると、とたんに何かが戻ってくる。
自分が戻ってくる。
傍若無人な自分が。
ただの自分が。
何を食べるのも自由。
どのタイミングで、何時に食べるかも自由。
食べないのも自由。
どんなふうに食べるのかも自由。
お風呂に入る時間も、寝る時間も、
(起きる時間も、とまではいかないのは残念)
どんな順番で何をしても、
何をしなくても自由。
ぜんぶぜんぶ、
自分の思うまま。
思いつくまま。
そのときのフィーリングで決めて動ける。
まさに自由気まま!
今はまだ限定数時間の世界だけれど、
それでもひとり暮らしを謳歌していて、
その時間を生活に取り入れたことで健やかになってきた気がする。
精神や魂がすこやかに。
みんなにもおすすめしたいくらい。
(だれかのお世話をしている人には特に)
いつか、
一週間、数週間、
一ヶ月、数ヶ月、一年、数年、、
ひとり暮らしができるようになるといいなあ。
願えば叶うからそのうちできるだろう。
そして万物は常に移り変わるから、
誰かと一緒に暮らすのが夢です、という時も来るかもしれないが、
ひとまず今の夢はこれ。
ひとり暮らしをすること!
ひとり暮らしという夢

コメント