みんな繋がっている

writing

今朝は清水の掃除だった。

私の住んでいる唐櫃岡には「唐櫃の清水」という水場がある。
檀山のふもとから水が湧き出ていて、この水場ができたのは100年ほど前。
昔はここで野菜を洗ったり洗濯したりおしゃべりしたり、社交の場だったそう。

豊島の花崗岩を積んでひな壇上の壁面にして、三つの水槽(水舟)も石で造られている。
ここには小さな神社とお寺があって、大きな楠木も2本ある。

この楠木から出る落ち葉を掃除したり、
お堂をきれいにしたり、
お地蔵さんの水とお花を取り換えたり、
それらを月一で行うのが私たちしもんじょ部落の仕事になっている。
(夏、一年に一度水をぬいて水舟の掃除もする)

豊島に引っ越してくるとき、
ここなら住んでいもいいなと思った決め手がいくつかあったのだけど、
清水もそのひとつだったから、その掃除を担当する部落に住むことになったというのも不思議だなと思う。

夏は暑いし冬は寒いし、
季節感がくっきり際立っている豊島だから、
月一とはいえ朝の掃除はなかなかにたいへん。
でもやっぱり掃除をすると気持ちがよくて、
なにかがちゃんと整った感じがする。

だんだんと参加できる人の数も減ってきて今は15人くらい。
集まったらみんな掃除道具を手に持ち、おのおの持ち場をきれいにして、
そこから少し離れたところにある地蔵堂とその周りも掃除して終了。

私が越してきた頃はお供えしていたお菓子を新しいのに取り替えて、
ふるいお菓子を人数分に分けて持ち帰るという習慣があったけれど
今は簡素化されてもうそれはない。
でも飲み物だけは用意されて、掃除後にお茶を飲みながらみんなで少し団欒して解散する。

息吹がちいさい頃は一緒に連れていっていた。
たいへんだな、めんどくさいなと思うこともよくあったけど、
今はこの掃除がとてもいいなと感じている。
こんなこと、都会じゃないよねきっと。
この掃除があるうちにだれか映像にしてくれないかなとも思っている。
いずれなくなってしまうときがくるだろうから。

今日は掃除をしながら、
葉っぱがほとんど落ちた桜の枯れ枝に蕾を見つけた。
もうつぼみがある!
つぼみっていつできるんだろう。

たくさんの落ち葉の中に、
水仙の葉っぱが青々と束になって生えていることにも気づいた。
花が咲く姿がぱっと浮かぶ。

冬真っ只中で、これからますます豊島は茶と灰の冬らしい景色になるだろう。
それなのにもう春の準備が生まれている。

冬の中に春が眠っている。
冬の中には春が含まれている。

すごいなあ。

ぜんぶ繋がっているんだな。
ぜんぶが地続きにつながっていて、
それでずーっとまわっているんだ。

ほんとうは切れ目なんてないんだ。

ぜんぶ、つながっている。

掃除の帰り、
近所の廣田さんに誘われて干し柿をもらいにいった。
一緒にいった人たちとはしゃぎながら吊るし糸を手繰って、
宝石のような “ずくし柿” をジュースのように吸って、
たわわに成ったキウイもたくさん捥いできた。

つながってるなあ。

私たちもみんな繋がっている
寸分の切れ目もなく。

人も、自然も、
本当はすべてがあまねくつながっている。
すみずみまで、漏れなく。

すべて繋がっていると思い出すこと。
すべて繋がっていると気づくこと。

これから肝になるのはこれだと思う。
なににおいても。
唯一これだけだと思う。

これさえわかっていれば大丈夫。

そこから生まれるどんなものも、
どんな活動もだいじょうぶって思う。

その前提から生まれるものは、
形であれ、
形ないものであれ、
きっととても美しく温かいものになるだろう。

その時は、もうきている。

コメント

タイトルとURLをコピーしました