大学生のころ、私はモラトリアムだった。
社会に出たくなくて、
じりじりと今を引き伸ばすようにしていた。
陶芸にあれだけはまっていたのも、
そのことと無関係ではなかったのだと思う。
大人になりたくなかったわけじゃなく、
大人が作った世界に組み込まれることに抗っていた。
それは今も続いているわけだが。
(ただしもう抗ってはいない。ただ外れているだけ)
社会の中で働いている力学、システム、枠組み、構造、設定、暗黙のルール。
目には見えないけれど皆が絡めとられているそれに、ずっと疑問の目を持っている。
私の作陶はその象徴だったかもしれない。
それはかぎりなく非生産的な行為だった。
プロダクトを生み出すためじゃない、
技を磨こうともしていない、
陶芸家になるためにやってたわけでもない、
なんのために?
楽しいから。
ただ楽しいから夢中になった。
作陶をしていると、
時間の感覚が変わってしまう。
時計の時間から外れ、
どこか別のところへ入り込む。
何かを作ろうとしているはずなのに、
目的すらもどこかへいってしまい、
目の前にある土のかたまりそのものだけになってしまう。
没入。
無為。
私の作陶は砂曼荼羅に近かった。
それをしているとき、
私は無限にふれていた。
無限の遊び。
今ふたたびその扉が開いた。
モラトリアム大学生だった私は、
今やもう立派な大人になり、
仕事をして子を育てているが、
まなざしはなにも変わっていない。
あの頃となにも変わっていない。
作陶したら思い出した。
理屈ではなく感覚で。
そうだ、私は無限の存在なんだった。
時間は幻。
私たちは無限。
無限の遊びはどこまでも続いていく。
どこまでも無限につづていていく。
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